その519 フリーハンド 2021.8.24

2021/08/24

 中学、高校でK先生に数学を教わった。
先生は中学1年の時の担任の先生でもあった。
有名企業の研究室から転身、母校の教員として赴任されたばかりであった。
まじめな先生で、小学生気分がたっぷり残っているガキ生徒をまとめるのに苦労されたと思う。
生徒の数学的才能を鋭く見抜く先生で、私などは「切れぬやつ」と思われていたことだろう。
定規やコンパスを使わずに、黒板にフリーハンドで図形をスルスルと描かれた。
特別うまく円が描けた時など、教壇で「うまいっ」と独りごちておられた。
 
 手紙を書くことが減って、文章を縦書きすることは少なくなった。
たまに手紙を出す時には、白紙に下書きをするのだが、文字列がずれたり、大きさが不ぞろいになってしまう。
レポート用紙を縦にして書いても、文字がボーリングのガターのように両側にぶつかりながら進んでいく。
 
 ある時、机に片対数グラフ紙を見つけた。
35年ほど前、たんぱく質を電気泳動したゲルを染めて、分子量を知ろうとしていた時に使ったものだ。
これに縦書きをしてみると、どういうわけか、中心線が自然に決まって、しかも束縛感がない。
片対数グラフ紙を求めて文房具店に行ったが売っていなかった。
かつては大手文具メーカーが販売していたのだが残念である。
もっとも、最近はパソコンのソフトで簡単にプロットできるだろうから、販売中止も仕方あるまい。
でも、私は自由に書ける日本語の縦書きという意外な用途を見つけた。
片対数でなくてもよさそうだが、1ミリや5ミリの方眼紙ではやはり文字列がずれるし、
原稿用紙はまた別の意味で不自由だ。
片対数グラフ紙であれば、フリーハンドでも縦書きがうまく書ける、気がする。
 
 K先生は図形を黒板に描くとき、初めからうまく描けただろうか。
それとも練習されただろうか。
K先生には黒板に縦横の中心線が見えていたのだろうか。
 
 片対数グラフを見ていると、ゲル電気泳動の失敗を思い出した。
ゲルを作るには、まず数ミリの隙間を持つ二枚のガラス板の外周に、
ひも状のゴムを挟んで、大きめのクリップでしっかり固定する。
ガラス板の間にゲルの元となる液体を流し込む。
ガラス板の外周にゴムがあるから、漏れずにゲルはしだいに固まる。
固まったところで、ひも状のゴムを静かに取り除く。
 
 この時の手順が重要で、私が教わったと思ったやり方は、
ガラス板を固定するクリップを先に外してから、ゴムを取り除く、であった。
しかし何度やっても、ガラス板と固まったゲルの間に空気が入ってしまう。
空気が入ると電気が均一に通らないので、電気泳動の実験にならない。
 
 度重なる失敗の後だった。
ガラス板に挟んだゴムを、サンドイッチのように持っていて、私は気が付いた。
クリップを先に外すと、抑えられていたゴムの弾力によってガラス板とゲルの間に空気が入るのだ。
クリップで挟んだ状態でゴムを外せば、ゲルとガラス板は密着したままであり、
空気は入らず、いざ実験の本番に進むことができる。
Ahha! この失敗で、自分で気付くことの喜びを学んだ。
今や、ゲルを手作りする実験者なんていないでしょうね。